人間社会

最近人恋しくて久しぶりに大城真くんと会った。まあ、久しぶりといっても去年桜台のpoolでinformationを呼んでくれたのでその時以来。お互いの近況を話したり、昔話をしたり、真剣な話をしたり非常に楽しく過ごした。
その中でふっと僕は「人間社会に興味がなくて」ということを言ったところ、彼からは当然「でも人間相手にやるしかないよね」というような答え(正確ではない)が帰ってきた。
その時うまく伝えられなかったんですが、何を言いたかったかっていうと、あくまで自分がパフォーマンスする上で、今ある人間社会が作った芸術、芸能の価値観なりシステムに興味がないということを言いたかった。ちょっと言葉足らずだった。
この考えは、かつてLoop-Lineで宇波拓さんから教えてもらったスペキュレイティヴ・リアリズムの影響がかなり大きい。実際non-eventというopen/startと入場料だけ記載された企画(来たお客さんに50%バック+母の手料理)や、l-eになってジャロッド・ファウラーのパフォーマンス(リハ時に空のサンプラーをl-eの機材置き場に置いて、本番は客席にすわっているだけ)やマッティンとのopen朝10時/start夜10時という企画もあって、非常に刺激された。本当に興奮した。
今はノイズやインプロ、アートとかの人間社会の価値観に入りこんでるように見えるスペキュレイティヴ・リアリズムに対して少し冷めた感じで見てますが、自分の中の価値観を変えられたことは確か。
l-eはLoop-Lineと違っていわゆる商売としてやろうとは初めから考えてなかった。(Loop-Lineは家賃も高いし利益がなければできなかった、だからやめざるを得なかった。それに出演者にも気を使わせて悪い思いをさせていると思っていた)。もっと個人の好奇心をお互い無理なくできる場として機能させることが最優先だった。今ももちろんそう。でも人間社会の価値観やシステムではそれは許されないことなのだろうか?物理的利益が優先でなくては存在してはいけないのか?より多くのより開かれたものと無限に目指さなければならないのか?人間社会が生んだ価値観はそこにあるのだから。